エッセイ

カエルになりたい人生

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はじめに

これは僕が23歳にして初めて書く僕の歩んできた人生たちと、これから歩んでいきたい人生たちについて描かれた本である。

はじめに言っておくと、この本は「こういう人生を送れ!」とか「人生はこうあるべき」といった自己啓発に近い内容ではなく、僕まえぷーが実際に経験してきた人生について書かれているだけで参考書となる内容とは少し遠い。実際に23歳の小僧に「人生とは…」と語られても寿命の半分も経験していない人生なんて薄っぺらい内容しか出てこず、誰が参考になるだろうか。僕が読者でも「なに人生なんか語ってんだ、うるせぇ!」と咄嗟に口から出てしまいそうだ笑

参考になる内容を知りたいのであれば人生経験豊富なおじいさん、おばあさんに聞いてみれば良い。毎日散歩をして優雅に暮らす姿に憧れる人も多いだろう。僕もその一人だ。どんな人生を歩んできたのか、後悔や憂いといった苦い思い出から、昔はモテてたんだぜアピールのアオハル話まで引き出しなら大量に持っているに違いない。もちろん1番身近に存在している両親だって参考になる対象に当てはまる。友達だって自分とは違う人生(家庭環境、テストの成績、恋愛事情など)を歩んできているのだから対象外にはできない。そんなことを言えば、小中学生も同じだ。今の子らはタブレットで授業を受けるんだからね。それが当たり前なのだからどんな感覚か聞いてみたいものだ。

人生を話す人に対象なんていないのかもしれない、僕も含めて。人生は、十人十色。話す人が多ければ多いほど面白みがある。噛めば噛むほど味が出るガムのように。

人はフィクションや経験していない話を好む。僕もそうだ。経験したことなど自分自身で判断がつく。

この本は僕にとって紛れもなく”人生の一部”となる。初めての執筆。初めての作品。決して読みやすいものではないのかもしれない。参考になる内容が書かれていないのかもしれない。それでも書きたい衝動に駆られて手が動いているので、本当は僕自身のためなのかもしれない。

とは言いつつ目指すのは、“大切な人に共有したくなる本”だ。別に書店のドアを潜った目の前にドーンっと構えていなくて良い。読みたい!面白そう!と思ってくれた人の手に渡ってくれれば十分。その中で面白かったと読んだ人が他の人に紹介して、その人がまた別の人に紹介してどんどん繋がっていってくれたら、それ以上望むことはない。求める人に届けば良いし、求める人にしか届かない運命なのだから。届かないのであれば、この本はそれだけのことだったということだ。

23歳。おたまじゃくしから手足が生えてきてカエルに成長しようとしている僕が歩んできた人生、考える将来について一緒に触れていけたらと思う。悪くいってしまえばこれは僕個人が勝手に書いている本であり規制もクソもない。だからこそ自分自身の言葉でオブラートになんか包まれていない本心の言葉でしか伝わらない何かがあると信じて。

きょうだい

僕には9歳上の姉と5歳上の兄がいる。末っ子の僕はいつも甘えて過ごしてきたので、つまらないだろうが特に苦い経験がない。昔から姉兄とは仲が良く、大人になった今も毎週のように遊んでいる。僕にとって姉兄は、憧れの存在であり1番身近な参考になる人たちだ。同棲ということもあり特に兄の存在は大きく、僕が小さい頃から兄の背中を追ってきた。なにを選ぶにしても兄と同じが良く、ランドセルは兄が買ったものと同じものを、スポーツは兄が入っている野球チームに、高校選びに至っても兄と同じ高校を目指したものだ。(弟の僕は出来が悪いので落ちてしまったのはここだけの話)

そんな兄も現在は、結婚をして子供も産まれた。今はもう立派なパパさんカエルだ。お嫁さんができた時点から始まっていたが、遊ぶ機会が少なくなっている。子供が産まれた現在は育児に専念しているので、一緒にオンラインゲームをする時間すらない。毎週遊んでいてくれていたきょうだい。姉兄のように気を許せる人が片手で数えられる程度しかいない僕にとっては、遊ぶ相手を失ってしまった。そして気づく、「あぁ、結婚って、家庭をもつってこういうことか…」という寂しさを。そして同時に、隣に大切な人がいるという結婚の良さも実感した。

兄だけでなく姉の背中も見てきた僕なので、やはり結婚して家庭を築くことにも憧れを抱く。今の時代、一人で楽しめるコンテンツなど腐るほどある。むしろゲームとか読書とか一人でないと捗らないことだってある。それでもやっぱり人の温かさには敵わない。

家に帰ってから聞こえてくる「おかえり」、3連休で予定する「家族旅行」、車内のミラーから見える気持ちよさそうな「寝顔」

それらに触れるだけで他に望むものなどあるだろうか。お金や健康だって人生の中でトップを争うほど重要だ。必要ないとは微塵も思わない。でもトップではない。人の温かさ、「愛」には及ばないのだ。

大切な人が身近にいる。たったこれだけのことで人は幸せになれる。いま隣にいる大切な人に「ありがとう。」と言えているだろうか?

やはり僕たちはきょうだいだなと思うときがよくある。「子供何人欲しい?」と兄に聞いてみると「別に俺は何人いてもいいんだよね、子供がきょうだいを何人欲しがるかかな」と言った。僕と全く同じ意見だった。他にもゲームのキャラクターで職業を選ぶとき、7つも選択肢があったにも関わらず“女性に盗賊”と選んだ職業が同じだったのだ。可愛いのに盗賊という野暮な組み合わせに惹かれたという同じ理由で。

そんな僕の道標のような存在の兄だが、一つ妬ましいことがある。それは、嫁ちゃんがめちゃくちゃに可愛い…

ポン、ポン、ペイン

兄と同じ高校を受けて落ちたという話をしたが、僕はまだ諦めきれず兄の背中を追っていた。兄は高校卒業後、就職をし社会人となった(厳密には高校入学と同時に入社という専門的な学校で、卒業後の就職先が決まっている)。同じ高校は逃したものの、高校卒業後に就職をすれば兄と同じ道を歩める!と思った僕は、就職がしやすい工業高校に入学した。順当に進み高校を卒業する段階で兄と同じ会社ではないものの、同じ職種の会社から内定をいただいた。晴れて18歳で社会人となった。

同期は60人ほどいただろうか。9割は大学、大学院卒で年上ばかり。中には京都大学の卒業生もいた。完全アウェイ…2ヶ月の研修を一緒に過ごしたが嫌われないようにすることだけに全てを注ぎ、彼らの意見にすべて頷いた。高校では硬式野球部に所属していたこともあり上下関係に敏感になっていた。1つ上の先輩にすらビクビクしていたのに、同期はほとんどが4つ以上も離れている。よわい18歳にして知る、入社初日で痛感した「人生死亡フラグ」

同期が気を遣ってくれたこともありなんとか2ヶ月の研修を終えたが、なんと厳しいのはここからだった。洗礼として、配属部署の希望を3つ挙げたが全て通らず余りモノ。「他の部署から声がかかった」と言っていたが、本当のことは今となってはわからない。もちろん抵抗する力も勇気もないので、なるがままに従った。

配属された部署に行くと、まず感じたのは、年齢の差。社員の中で次に年が近いのが30歳超えであった。上司に関しては、父と同じくらいの年齢だ。同期とは年齢が近く話すネタがあったのでまだ良かったものの、社会人2ヶ月の未成年ガキが10歳以上も離れたおっさんたちとなにを話せば良いことやら。配属ガチャで引く「人生死亡 確定演出」

一番の問題は僕のメンター(指導者)。どう入社したのだろうか。なにもできない。社会人なりたての僕がいうのもアレだが、本当に何もできない(笑)部署には派遣の方も働いていたので、困ったら派遣の方に頼っていた。いつからか忘れたが派遣の方と一緒に僕のメンターのことを、ポンコツの頭をとって「ポン」と呼んでいた。派遣の人と話しているくせで、メンターを呼ぶときに「ポン」と呼びそうになった。実のことを言うと、ポンは一人ではない。僕の直属上司である役職者の方もポンであったのだ。PCの基本操作すらままならない、タイピングに至っては人差し指のみで探しながら打つおじいちゃんスタイル。わかる。人には向き不向きがあることを。だから別に責めるつもりは一切ないが言わせてほしい。「俺が役職者やった方が良い!」

ただ、意外にも悪いことばかりではない。ポンたちを身近で見れたことで反面教師として、彼らとは別の思考、行動を起こすことで利用できた。結局のところ自分がどうなりたいか、どうしたいかが重要なので他人の能力などどうだって良い。結局大事なのって、吸収しようと心がける気持ちなんだなって(メンタル論になっちゃいますが…)

僕だって彼らを反面教師として見れたから成長できただけであって、彼らの意見に従うだけの犬であれば成長していなかった。いつかの本で読んだ言葉が僕の心に深く刻まれている。「大事なのはなにが与えられるかではなく、与えられたものをどう使うか」

この場で感謝を言わせてもらう。「ポンたちよ、ありがとう…」

尊敬しあう人

そんなポンが集まる職場だったが、もちろん尊敬する人もいた。いや尊敬もされていたので、“尊敬しあう人“というのが正しい。年齢は一回り以上離れていたが、お互いの立場は対等。そんな関係が嬉しく、楽しく、ありがたかった。やりたいことを優先したが故に会社は退職してしまったが、今も連絡をとりハイキングに行ったり、ご飯を食べにいく関係性を保っていただいている。会社にいた頃は、たわいもない日常会話から、仕事に関係すること、プライベートの相談などいつも多くのことでお話に付き合ってくださっていた。相手の意見を聞きつつ、その意見に対して自分の見解を良い悪いに関わらず語っていただいた。余裕のある姿がカッコよかったのだ。

この時も普段通りお話をしていたが、その時放たれた一言が妙にしっくりきている。

“常識とは非常識の集まりである”

どこかの有名学者のセリフのように聞こえる。だが僕はその人に言われたから響いている。何を言うかではなく、誰が言うかと言うのが大事なんだなと実感した瞬間だ。結局、この本もただの23歳一般人が書いている趣味程度のものなので響く人は親族くらいなのかもしれない。それでも僕の言葉で響いてくれる人がいるという事実が何より嬉しい。

僕は最新漫画の主人公、アンチ・アンチ属性

ときどき僕以外の人は本物の人間なのかと疑問に思うことがある。すぐ横で話をしている相手が実は宇宙人なのではと妄想する。僕は今、めちゃくちゃ大規模なドッキリを仕掛けられてるかもしれないと。そんなことを考える変態野郎なのでネットでアンチに何を言われようと響かない。(言われるほどのことはしてないけど…)

彼らとはリアルで会ったことないのだから、人なのか他の生き物なのか判断できないだろう?

恋愛においてもこの考え方は利用できるかもしれない。相手に期待しない、求めない。なぜなら相手は宇宙人で人間とは考え方が違うからだ。

他の人間か宇宙人か知らない生き物に自分の心が読まれてるとも思ってる。だから自分はその読んでる人を読んでるという裏の裏をかくような想像を1人心の中で争っている。「今、俺の心を読んでいるのだろう?俺はそれすら読んでいるぞ!!」こうして客観的に見ると厨二がすぎる(笑)

というか、そもそも宇宙人とはなんだ。人間も宇宙のもとに生まれた生き物なのだから宇宙人なのではないか。話が飛躍しすぎている気がするのでここで終わろう。ビューん

日本の良さを10個挙げよ

つい先月までカナダに英語とデジタルマーケティングを学びに留学へ行っていた。たかが1年だけの期間だったが、日本から外に出たことで多くのことを学んだ。その一つに“日本という国の素晴らしさ“がある。まず、ご飯が美味い。何を食べても美味い。逆にまずいものを見つけるのが至難なほどだ。カナダでの外食は口に合うものが少なかったので自炊をしていたが、食材ですら扱いにくい。お肉のほとんどが骨付きではないか。幸いにもカナダは移民国なのでいろんな国のスーパーがある。日本という専門ではないがアジアと大きく括ったスーパーがあるので、そこでやっと骨付き肉以外のバラ肉を見つけた。お米もアジア系のスーパーに行かねば、日本米が無いので足を運ぶ必要がある。(カナダのスーパーには、細長いパサパサとした外国産のお米しかない)毎日食べるご飯にこれだけの労力が必要なのだから、脳死で近くのスーパーに行けば良い日本とは素晴らしい国である。

日本の良さは、ご飯だけではない。色々細かく分けれるが、ここでは大きく括って“暮らし方“としよう。カナダは物価が高いので一人暮らしをする文化がなく基本はシェアハウス。これは日本という国で生まれてしまったから感じることなのかもしれないが、なぜ見知らぬ他人と家を共有しながら生活しなければならないのか。気の許せる人ならまだしも、顔も見たことのない他人と過ごさなければならない。もちろん刺激を求める人には向いている環境であって、僕だけが感じたことなのかもしれない。それでも犯罪率の低い日本から来た僕にとって、他人と過ごすのは怖かった。まぁ、ここまでは良い。数日過ごしたり、自分から声をかけて打ち解ければ解決できる話だからだ。それよりも厄介なのが、共有部の使い方だ。別にルームメイトが日本人でも人によって変わるのだろけど、外国人ということもあって生活スタイルが合わない。僕のルームメイトは、机を汚しても掃除しないとか、冷蔵庫のスペースを跨いでくるとかでまだマシな方だった。クラスメイトに聞いたりすると、調理したフライパンや鍋を蛆虫が湧くほど放置していたり、缶やペットボトルを机にほったらかしていたりと、かなりカオスそうである。それぞれの生活スタイルが違うのは国を跨がなくとも変わらないが、気遣うという文化が定着している日本人にとってはキツイ環境だったのではないだろうか。

加えて、個人的にキツかったのがお風呂に浸かれないこと。これに関しては、どちらでも良いという日本人もそれなりにいそうだが個人的には大ダメージ。カナダというか日本以外の国には、お風呂に浸かるという文化がない。毎日シャワーしか浴びられないので疲れも取りにくい。お風呂に浸かりながら読むkindleがどれほど恋しかったことか。

個別の部屋があったとはいえ日本のように防音性のあるドアではなく、ただの板。自分の部屋でも休みにくく、休息する場所が少なかった。カナダは基本曇りか雨なので、天候にも恵まれず外に出かけるのですら難しい。

今まで当たり前のように過ごしてきた日々が、環境によってこうも変わるのかと。大袈裟ではなく、日本に生まれて日本で生きられていることを本当に運が良かったと思う。コンビニに行けば100円で美味しいおにぎりが買える。毎日浸かれるお風呂がある。平均的に見て週の半分以上は晴れて青空の下を散歩できる。生きる上で必要なものなんて指の数で数えられる程度なのかもしれない。

最後に、日本に帰ってきたなぁと感じたのは、寿司を食べたときでも、お風呂に浸かったときでも、姉兄に会ったときでもなかった。寝てるとき家の目の前にある田んぼから聴こえてくるカエルの合唱だ。ゲコゲコ。

デジタル逃亡劇

「最近思うのは、スマホやパソコンといったデジタル関係から逃げたい。というのもネットの中には情報が溢れかえっているため、僕の脳のキャパシティでは処理しきれない。そもそも僕自身、ありとあらゆる物事に対して注意深く観察する癖がある。意味や目的を導き出そうとする癖があるので、考える力を酷使することが他の人より多いと思う。だから余計疲れる。それに加えて、求めていない情報が流れ込んでくるのだ。疲れない方がおかしい。

アプリを開けば至る所に設置された広告やサジェスト。視覚的に誘導される画像や映像。人は視覚から吸収する情報量が1番多いと言われている。味覚1%、触覚1,5%、嗅覚3,5%、聴覚11%、そして視覚83%(リスク対策.com “人が受ける情報の8割は視覚“より抜粋)

1番酷使、消耗する部位で情報量の塊を相手にしているのだ。

嘘か本当かはわからないが、ネットには「現代人が1日に受け取る情報量は、平安時代の一生分!」と言う説も浮上している。

本の場合、白いページに黒い文字という視覚情報しかないので脳に対する刺激が少ない。だが、本から顔上げた途端、現実の世界に戻ってくる感じがする。それは人だったり、建物だったり、物だったりという視覚からの情報が一気に流れ込んでくるから。いかに情報量を減らすかってのが大事で、ストレスの抑制に繋がると思う。だからこそ最小かつ最大限の情報が詰まってる本が大好きだ。本を読みに帰ってくる(続きを読む)ことは、仕事から家に帰るみたいな感覚。つまるところ、本は僕にとって第2の家みたいな存在だ。

現代で2,3日スマホを触らずに過ごせる人がどれほどいるのだろうか。時間があればSNSを開きフォローしてる人の投稿をチェック。歩いている間にもスマホを触っていないといけない状況とはなんだろうか。親族の誰かが倒れたのであれば緊急なので連絡しなければならないが、スマホを触って行動することで自分の身がリスクを追っていることを忘れてはならない。まぁそもそも歩いている途中にスマホを触ることで時間を有効に利用しているという人が大半なのだろうが。

スマホを触ることや動画を見ることが決して悪いといっているのではない。むしろ僕だって毎日スマホを触るし動画も見る。娯楽として手軽に楽しむことができるので有効活用しない手はない。ただ、世の中それだけじゃないよというのを声を大にして言いたい。スマホを触りながら歩いてる人を見ると可哀想に感じる。美男美女とすれ違ってることに気付けないのだから。

僕は外で耳をすまして聴く音が好きだ。聴こえてくる音は場所によって変わる。街中であれば車のエンジン音や電車の踏み切り、工場の機械音や信号の音も聴こえる。一歩街の外に出れば自然の音に早変わり。鳥や動物の鳴き声、木々の揺られる音、川のせせらぎに風の音さえ聴こえてくる。そっと目を閉じて耳と肌に全集中させる。想像するだけで楽しくないか?画面では味わえない感覚を忘れてはならない。

前回、オンラインではなくオフラインで友達、家族、恋人と話したのはいつだったか覚えているだろうか。デジタルに置き換えられた相手の声や映像では、どうしても距離を感じてしまう。相手の温もりを感じるにはリアルが1番だ。温もりだけでなく、同じ場所で同じことをしていれば、それだけで一体感を感じる。人は孤独では生きられない。どこかに共通点を導きたい、導かなければならない生き物だから。自分がピンチになったとき、いったい何人のフォロワーさんが助けてくれるだろう?リアルで関係を築いてる人らに勝ることがあるだろうか。スマホは人生にとって必要不可欠なアイテムではない。一度、何時間、何日、何週間スマホを使わずして過ごせるか挑戦してみるのも面白い。まず最初に買わなければならないのは、めざまし時計だ。

最後に決して忘れてはいけないのは、「自分がデジタルから逃げたとしてもデジタルは進み続ける」ということ。今まで散々アンチデジタルな物言いだったのに急に手のひらを返す(笑)決して周りの環境は自分のペースに合わせてくれないので、逃げればその分置いていかれるのも事実。その中で自分にとってどの情報、機能が必要か、興味があるのか判断していけば良いと思う。仮想通貨が話題になり、AIが一般化され、自分にとってどんな影響を与えるのか、良いのか、悪いのか。指先だけ触れて確かめるのも一つの手だろう。取捨選択が自分の人生を変えることを頭に入れておきたい。」ってスタバで学生が言ってました…

心友

情報量の多さで言えば別にデジタルだけに限らない。一歩外に出れば情報社会だ。宣伝目的の看板、人間の行動、お店のメニュー、建物の配置。至る所に意味のある情報が落ちている。ただ生きているだけで情報が入ってきてしまう世の中なので、大事なのはいかに情報を制限するかだ。そのための一つとしてデジタルから逃亡することがある。そして何より人間関係だ。付き合う人がおければ多いほど、その人の容姿から趣味、話し方など情報が流れ込んでくる。自分が嫌われないように、悪い噂が広まらないように表面上で良い子ちゃんを演じる。ただただ自分の首を絞めるだけだし、そこに割く時間がもったいない。だから付き合う人は最小限に抑えるべきなのだ。増やせば増やすほど管理しきれない。僕には片手で収まる程度しか気を許せる人たちがいない。むしろ片手だけで収めておきたい。幸せになる近道は人と関わることだが、ストレスや嫌気がさすのもまた人と関わることだからだ。彼ら以外に友達は必要ない。

小学生からの幼馴染が3人いる。十数年の付き合いだ。筋肉バカ、もう大学生、キャンプ担当、そして服オタクの僕。“もう大学生“については保育園からの付き合いだ。幼馴染なんてマンガの世界かよっ!!と思われるかもしれないが、安心して欲しい。男だ。幼馴染と言っても小さい頃から仲が良かったわけではなく、年に一回遊ぶか遊ばないかの薄い関係だった。我らの仲が一気に深まったのは、中学3年生のとき。小学校、中学校と同じ学校で過ごしてきたこともあったからか、離れ離れになる高校へ入学する前のクラスメイトとは必然的に仲が深まった。

中学3年で同じクラスになった以降、頻繁に遊ぶようになった我ら。学校が終わってから近くの公園でサッカーをしたり、オンラインでゲームもした。気の許せる仲だったので恋愛相談だって彼らにぶちまけた(男だけで恋愛について語っているのを想像するとちょっとキモい笑)

みなして別の高校に行ったが、時間の合うときには4人でご飯に行ったりお出かけをした。会社、バイト終わりにラーメンを食べに行ったり、毎週末に家に集まり半年かけて桃鉄100年もやったし、愛知から九州まで車で旅行に行ったのも濃い思い出だ。YouTubeバブル時代には、「よし!やろうぜぇぇぇ!!」なんて底辺YouTuberらしく調子に乗り、1,2個動画を挙げて終わった。

それでも彼らといる時間は楽しかった。同じクラスで授業を受けていたのが、昨日のように感じる。と、いうのは冗談だが、でも確かに8年前とはほど遠い。時間とは過ぎるのが早いもので23歳になった今でもその関係性は変わらないが、みな大人になった。キャンプ担当は、高校を卒業して就職。もう大学生は、大学に進学。筋肉バカは、大学で留年。服オタクの僕は海外留学。みなそれぞれ決して交わることのない方向へと歩んでいた。社会人となった現在、筋肉バカとキャンプ担当には彼女がいて、数年付き合っているので結婚の2文字も脳裏に浮かんでいるだろう。中学生時代の授業中、「誰が1番初めに結婚するんだろうね」という定番のネタ。その答えももう目の前まで迫っている。結婚して子供も産まれてしまったら4人でまた、女のタイプについて語り合う時間も減ってしまう。それが大人になるということなのだから。

カナダから帰ってきた僕も加わり、久しぶりに隣の県に引っ越したもう大学生の家に遊びに行く。仕事後の集合なので時刻はすでに21時過ぎ。でもそこから始まるオールナイトニッポン。マリオパーティで蹴落としあうものの最後は協力しあう。ボードゲームで白熱の心理対決。お酒も混じるこの時間がなによりも好きだ。でも次の日に予定している森林の中でのテントサウナに向けて少し早めの就寝。リビングではなく、わざわざ狭い寝室にふとんや寝袋を部屋いっぱいに広げて、男4人で寝る。灯りを消した暗い部屋で始まる、「今好きな子いるの」とかいう修学旅行の就寝時刻を回ったときに話すネタも交えながら。寝つきが悪い僕は最後まで起きていたが、左右から聞こえてくる騒音のようないびきですら懐かしい感覚だ。僕らはいまだに小学生から成長していないのかもしれない。でも、それがいい。我らの関係が途絶えることは生涯ない。心からの友だ。

Loveれ

アメリカ人はよく「I love you」と言う。毎日言う。それはそれでいいと思ってて、伝えないとわからないことなんて世の中たくさんあるのだから。でも僕はわからない愛を求めてしまう。僕が気づきもしないような愛。例えば、人に席を譲るのは紛れもなく愛だろう。片付けやすいよう食べ終わった食器を机に並べて帰るのも愛。相手の今日の雰囲気、気分に合わせて淹れるドリップコーヒーだって愛だ。

「愛とは」とかいう壮大で海のように広い哲学チックなことを語り出しそうだが、今日は一言二言だけにしておこう。個人的には、優しさとか嬉しさ、幸せといったポジティブな感情の大枠だと思っている。愛の中により詳細になったのが優しさとかの感情なのではないかと。もちろんアメリカ人が言うI Love You. も愛の一つの形。愛について語り合ったところで、その答えに不正解はなく全てが愛なんじゃないかと。決して相手に求めるわけではないけど、愛の中でもさりげない、僕が気づかないような気遣いが最高の愛なんじゃないかと思う。

僕はまだ生まれて20年とちょっとしか生きていないので、昔のことはよくわからない。それこそ1代目の携帯はスマホだったので、ガラケーを持ったことがない。物心ついた頃にはインターネットが普及してるのが当たり前の時代に生まれてきた。インターネットもここ十数年で普及したもので人類史上でみれば最近の出来事だ。そんな僕にとって、「出会い」という奇跡には興味がないわけがないのだ。

今の時代、スマホを所持している人が大半でインターネットが繋がってることでスマホを所持している人と簡単にコミュニケーションが取れる。出会い系サイトやマッチングアプリなども配信され、出会うことができる場所がほぼ無限と言っていいほど広がった。だからこそ疑問なのだが、スマホやインターネットが普及する前に生活していた人々はどのようにして出会っていたのだろうか。そしてどのようにアプローチしていたのだろうかと。

この疑問を抱いたのは電車に乗っている時だった。車内を見回すとスマホの画面と睨めっこしている人が大半。僕がキョロキョロ不審な動きをしても、誰も何もおかしがらない。そして、少なくともこの中に一人くらいはマッチングアプリを利用している人がいるだろうなと考えた。つまり現代における出会いは、画面の中にあるのだと。そして先ほどの疑問だ。現代が画面での出会いだとすると、一昔はどうしてたのだろうか。もちろんスマホなんてハイテクマシンは無いので、人との出会いは画面越しではなく自身の目から直接見える現実世界、目の前の世界で起きてるのでは無いかと。ともあればたった一瞬、一秒のすれ違いで声をかけたりしたのだろうか。なんて、リアルで刺激的な出会い方だろうと痺れた。(全て筆者の妄想内の出来事)

絶賛大量発生中の草食系男子である筆者も、そのようなハイリスクな行為が取ることはできないが一昔の人に尊敬の眼差しが注いだのである。(もう一度言うが、全て筆者の妄想である)

スターウォーズの主人公アナキン・スカイウォーカーをご存知だろうか。彼こそ愛に溺れた末路なのだ。彼は、ヒロインの姫が好きすぎるが故に闇に堕ちてしまった。「彼女さえいれば世界がどうなろうと関係ない」、「なぜ彼女は僕がこんなに愛しているのに応えてくれないのか」と言うふうに。愛は大切な感情、形だが限度を超えると間違った方向に向いてしまう。アナキンは“愛する“ではなく“愛される”欲が強かったのだ。結局、他人に求めたことで引き起こした内容だったのだ。なので愛を大事にすると言っても、“愛する”ことを強く意識していきたい。他にもスターウォーズから学べることは多くあるので、観たことのない人はぜひ観てほしい。何を学んだかについて語り合おうじゃないか。ちなみに僕はジャージャーフィンクスが推しである。

自然と向き合う

電車からの景色が好き。普段見ることのできない角度から眺めることができるからだ。埋もれている建物を発見したり、建物の上から奥で沈みかける夕陽が見えたり、線路の先をのぞいたり。カメラも触る僕としては、この角度から見るとどんな風に撮れるのかと気になるから、余計楽しい。

でもこれって景色だけにとどまらないのではと疑問に思う。と言うのも人に対しても同じことが言える。毎日会うクソみたいな上司。いつも隣で寄り添う恋人。行きつけのカフェの店員。

別の角度から見てみるとまた違った発見があって面白いものだ。いままでクソみたいに思ってた上司も意外と良い面が見つかったりして。

意外なことに雨は嫌いじゃない。もちろん友達と外に遊びに行くとなると、快適な環境ではない。でもそれにどうこう言おうと天候は変わらない。変えることのできない環境についてうだうだ言ってもしょうがないと言うのが僕の持論だ。であれば、雨でも良い活用方法を考えてみれば良い。僕の場合、雨のポツポツと屋根に響く音やヒンヤリと冷たい空気感が好きだということに気づいた。そしてそれらの環境は、集中したい時にもってこいな環境なのだ。読書をしたいとき、執筆をするとき、雨の環境はとても有効的である。自分がどう捉えるか次第で、世界は大きく変わるのだと言うことを知ってほしい。

僕にはあまり悩みがない。後悔も少ない。むしろ後悔の仕方を忘れたくらいだ。良いなぁと思われるかもしれないが、これも考え方次第だと思う。僕の場合、悩む前に行動することが多い。変えられる環境に焦点をあて、変えられる範囲で行動する。これだけ意識しておけば悩むことなどないと思う。それも意識が定着していまえば無意識に変わる。もはや無敵だ。

それでもまだ悩むのであれば一旦空を見上げてみよう。大抵のことは空見上げれば忘れる。世界って、宇宙って広いんだなって。地球の誕生って45億4,000万年前なんですよ!ちっぽけな存在に思えて、悩んでる自分が笑えてきちゃいません??森林浴をするのも良い。木々の新緑と真っ青な空が一番の映え風景というのを知らない人は多いだろう。今の人生が最高すぎて、生まれ変わったら同じ道を歩めないのが唯一の贅沢な悩みかもしれない。

ロールプレイングゲームがお好きなの

やりたいことをやりたいと言って終わる人が多い。やれば良いのにと思う。時間やお金がないという理由が多いだろうが、今できなくともやりたいことをやるために今出来ることはあるだろう。プライベート時間の見直し、お金の管理、貯金。そうこう言ってるうちに行動している人と差がひらく。ここで言いたいのが、啓発本によくある「行動しろ!すぐ動け!」という励ましではない。そうではなく、すでに行動している人は「やりたいと思うことなくやっている」ということを認識しておいてほしい。ヒーローものによくある”考えるより先に体が動いていた”というやつである。この本もそうだが、僕は本が出してみたいと思っていたので今執筆している。やりたい!けど○○…は、ただやりたくない理由を探し自分を正当化させているだけにすぎないと思う。

じゃあどうすれば良いんだこのクソガキ!と言う話だが、答えは至ってシンプル。好きなことを好きなだけすれば良い。これに尽きるだろう。子供は誰かに指示させられて遊んでいるのだろうか?ご老人は、命令されて散歩やパターゴルフをしているのだろうか?否。みなやりたいからやっているだけ。

この世の中、溢れるほどの人がいる。十人十色という話も前述した。ならば地球上のどこかに必ず、自分がしたくないことを「やりたい!」と思ってやっている人がいることを忘れてはならない。トイレが綺麗になる工程が好き。高所作業で街を見下ろすのが好き。数字と睨めっこしてるのが好き。好きなことを仕事にしてる人はごく僅かとよく耳にするだろう。でも逆に考えてみたらどうだろうか。少なくとも、各作業を嫌いとか苦手と思わない人がいる。ならば自分はどの作業が苦じゃないか、続けられそうと感じるか。僕の場合、それが文章を書くことだっただけだ。そのためにもやはり経験値を蓄えると言うのは大事になってくる。

言葉で伝えるのは難しくて、行動で示すほうがよっぽど信用に値する。でも行動で示す手段がないので言語化を試みるのであれば、すぐに動け、ではない。どちらかと言うと「感情に従え」というのを心がけていきたい。

人生とはRole Playing Game(各々の役割に沿って協力し支え合う物語)だと思う。自分の得意(苦手じゃないこと)で人を助ける、支えることが自分にとっても無理なくできる最大限の貢献だ。ガノンドロフの討伐は僕に任せろ!

自分の心と心理戦

結婚式の雰囲気がとても好き。1人の例外もなくみな幸せそうにしてるから。でも自分が新郎の立場となると話はべつ(だと思う)

大勢いる空間で目立つのが得意じゃない。でも結婚式は好き。

僕のヒーローアカデミアという作品に登場する麗華お茶子というキャラクターがいる。彼女の考え方がわかると感じたのは、結婚式に参加したときやスポーツの中継が行われてるレストランに行ったときだ。彼女曰く、ヒーローが人助けをしたとき、その周りにいた「人の喜ぶ顔が好き」だと。僕も同じように「結婚式の新郎新婦を見てる人たちの幸せそうな表情」が好き。「サッカーWCでスペインを倒した時の、自分ごとのように喜ぶ周りの人の表情」が好き。

他にも公園でお爺ちゃんと孫が遊んでる姿をみるとホッコリする。お爺ちゃんや子供を見ると嬉しくなるのは、彼らが純粋に楽しんでる、今を生きてる、からなのではないだろうか。

ただ、ホッコリしているはずなのに、もう一人の心の中の自分が「子供が好きな自分がかっこいい」みたいな感じで、作り笑顔を見せているんだろう!と顔を覗かせる。自分の笑顔は見せかけの笑顔なのかもしれないと。ただただ純粋に嬉しい気持ちなのかわからなくなる時がある。何事も深く考えてしまう傾向にあるので、考えることをやめるのもまた、人生を豊かに、心を穏やかにする一つの生活スタイルなのかもしれない。

「苦労分散型社会」

「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」を読んで思ったことだ。今の日本(昔は知らないが)は、ルールが多い。例えば電車やバスといった交通機関の中では電話ができない、良いとされてない。それが家族がらみの緊急事態だとしても、周りの人からは公共の場で電話をしている迷惑なやつとしか思われない。静かに過ごさなければならない場所では、オナラの音ですら響き渡るだろう。果たしてそれがあるべき姿なのだろうか。いや、あるべき姿などないのかもしれない。でも過ごしやすい環境を整えることが難しくても、過ごしにくくない環境を目指すことはできるのではないだろうか。公共の場で騒音を立てて嫌がる人が半数以上なのかもしれない。僕もどちらかといえば静かに過ごしたい側ではある。割合で言っても7:3くらいで静かに過ごしたい人が多いと思う、完全に主観だが。ただ、少なからず友達と話したり、緊急で電話を必要としている人もいることは確かだ。次いつ会えるかわからない友達と久しぶりの再会。移動時間でさえその再会を身に染み込ませたいはずだ。そんな彼らにとって過ごしにくい環境がまさに、物音立てずに過ごさなければならない場所である。1人が大きな苦しみを感じるより、みんなで苦しみを分散した方が1人に対する負担は減る。苦しい1人を見逃すのは、みんなで苦しさを負担するより辛くないだろうか?

カナダであった出来事だ。バイトをしているとお腹を空かせた1人のホームレスらしき老人が店内に入ってきた。ボロボロでよれた服にボサボサの髪の毛だったので、確証はないがホームレスらしい人ではあった。

老人はお金を持っていなかったので、注文せずにしばらくメニューを眺めていた。すると近くに座っていた男性が老人の代わりに注文をして、料理をあげたのだ。すごく自然な流れで対応していた男性を目の前で見た僕は、感動した。一人の老人はお腹を空かせて困っている。もう一方の男性は、少なくともお腹を空かせるほどお金に困っていない。毎回そのような場面で後者の男性のような振る舞いを行うことは難しいかもしれないが、意識することはできるだろう。それもまた、一つの愛なのではないかとも思う。日本では味わったことのない経験で、もし次そのような場面に出くわしたのであれば僕がその男性役を買って出る。喜ぶ人が多いかではなく、苦しい人が少ない、苦しみが負担が少ないかで判断していく。

この世が平和になればみな幸せなのだろうか?確かに争いがなくなることで勝ち負けが無くなるので、負けた側が苦しむことはない。平和だけを求めるのであれば、ルールでがんじがらめにしてしまえば争いがなくなる。でもそれが幸せになるとは繋がらない。

縛られたルールの中で生活していくことが苦しい人だっているのだから。”負けることが苦しい”よりも”ルールに縛られた不自由な世界”が苦しい人だっている。と、語る僕が一番”自由”を欲しているんだ笑

世の中の出来事は大体がグレーだと思う。白にも黒にもはっきりとつけられない。さらに言えば、グレーの中でも白よりだったり黒よりだったりする。グラデーションで混じり合ったグレーが大部分を占めているだろう。だからこそルールで縛るなんてことはする必要なくて、大事なのは「許容」ではないか。お互いの意見が白よりのグレーと黒よりのグレーなら、ちょうど間のグレーを目指せば良いのではと。(グレーって100色あんねん…)

23歳社会人

さて、今から面白い話をしよう。前回の話で僕は「デジタルを避けたい」と話した。ネットや交通機関など至る所に貼られた広告や、検索をかけていないにも関わらずオススメとして出てくるサジェスト。まるで「こっちの方が良いんじゃない?おすすめだよ?」と誘導(支配)されている気がするからだ。確かに自分にとって都合が良い場合もあるが、他にも選択肢があったり、そもそも現状では望んでいない場合もある。とはいえ、心の中で避けたいと言いつつ、場所を問わずビジネスをできる強さも十分理解している。だからか、カナダではデジタルマーケティングについて学んだし、カナダから帰国した僕は今、なんとデジタルマーケティングのお仕事をしているのだ。ドンっ!

人間が、なのか僕が、なのかはわからないが、避けようと意識している物事ほど身近な存在になってしまうのだなと。意識が向いてしまっている時点で既に身近な存在になっているのかもしれない。

マーケティングについてのお仕事をしているので、この本も少しは売れるように仕向けることはできる。でもそれはしない。先にも述べたように収益を目的としていないし、誘導されたコンテンツによって読まれることを目的としていないからだ。しかるべき人に読んでもらいたい。それが10人だろうと。

マーケティングのお仕事は自分に楽しいし、合っているとも感じる。お仕事をする前からマーケティングの本を読んだり、ネットで調べて学んでいたくらいだ。だが、マーケティングはあくまで手段でしかない。マーケティングを否定しているわけではなく、必要だと感じたときに利用すれば良くて、今回の場合は必要なかったと言う話だ。

眠たい(体が休息を必要としている)から睡眠をとる。お腹が空いた(体が栄養を必要としている)から食事をする。ただ、時間になったら寝る、食べる、とか知り合いにご飯を誘われたから行く、といった目的を失った行動は避けたい。知り合いとご飯に行くことで、人脈が広がる、美味しいご飯が食べられる、ご飯を作る手間を省けるなどといった目的があれば行く価値がある。”考えること”こそが人間に与えられた力なので、脳死で行動するのではなく、目的を考えた上での行動を心がけたい。

この本を書いている目的を知っているかい?「文筆家」という称号が欲しいからだよ…

数字や時間の使い方

数字や時間というものに違和感を覚えることがある。決まった時間に起きて、決まった時間に出社して、決まった時間にご飯を食べて。客観的に判断できるようになってしまったがゆえに、数字に頼りすぎている(振り回されている)のではないのだろうか。別にお腹が空いたら食べ始めれば良いし、眠たくなれば寝れば良い。時計や数字そのものが撲滅されるとそれはもちろん困るが、少し立ち止まって”考え直しても良い部分”が見えてくるのではないだろうか。数字に縛られない生活というのは幸福に近づく一歩なのかもしれない。

今までは時間が何よりも大事で限られた中で何をやるかって考えてたけど、最近は違う。やりたいことを満足するまでやる。限られた時間の中でやる行為には、制限が生まれてしまう。果たしてそれで満足するのだろうか。やりたいことなのであれば好きなだけやれば良いではないか。逆に言えば、やりたくないことに時間をかける必要も全くない。今の仕事が気に入らないのであれば辞めてしまえば良い。世の中にどれほど仕事があると思っている!俺は知らん(ドンっ!!)

とはいえ、人生の中で携わる仕事なんてバイトを含めても手で数えられる程度の人が大半であろう。そこも別に数字じゃなくて、自分が満足できる仕事に出会えるまで探し続ければ良いと思う。

僕の好きな作品「宇宙兄弟」でも語られている。3人の幼馴染が子供のころに掲げた「宇宙の仕事を3人で担う」という夢を、3人のうち1人が不慮の事故によって亡くなってしまったことで叶えられなくなった。人間いつ死ぬかなんてわからない。残った2人で誓い合った言葉が「人生は短いんだ。。。テンションの上がらねぇことにパワー使ってる場合じゃねぇ」と。

焦る必要なんて何もなくて、雲が動くスピードのようにゆっくり進めば良い。

Time is NOT money

大事だから、心のノートにメモっとけ。

これから

現在、23歳の僕だが、これからも多くのことを経験していくと思う。できるかはひとまず置いておいて、結婚して子供が生まれ家庭を持てば、また考え方も変わるだろう。自分だけの人生だったものが、自分たちの人生になるのだから。僕の姉と兄は結婚して子供も生まれているので、その様子を見て幸せそうと思う僕も同じ道を歩みたい。「嫁」という言葉に憧れる。おじいちゃん、おばあちゃんが公園で手を繋ぎながら散歩しているのに将来の自分を重ねる。カナダに行くことを決めたきっかけもそうだが、「カッコいい」とか「憧れる」という感情を見逃さずにこれからも自身の感情がそそられることを選んでいきたい。

人間って経験したことにしか理解できない、気づけない生き物。一人暮らしを始めたとき寂しさを実感するし、身近な人が亡くなったとき初めて死を実感する。借金してどん底になって初めて詐欺だと気づく。新しく車を買ったときに、意外と同じ車走ってるな、と気づく。だから意見を言うときは、自分の物差しで語ろうとする。ここははっきり言うが、経験もしてない奴がうだうだ言うな。人生語るな。

人生なんて一人として同じなことない。それぞれが違った人生だから、親と同じ道を歩むとか、有名人の言葉に従う、とか敷かれたレールをなぞる必要なんて一切ない。レールは自分で敷け。自分だけの人生を開拓しなければ。宇宙人の話もそうだが、信じられるのは自分だけ。他の人は宇宙人なんだから。

発信するときに気をつけていることとして、発信する内容が見た人の100%参考になるわけではないので勧めることはあっても確証はさせない。その中でも自信が経験したことを発信することで他の誰かの参考になったりするのであれば、それ以上に嬉しいことなどあるだろうか。これからも”経験したこと”を題材に”1人”に届くようなコンテンツを発信していきたい。

過去と未来の自分へ

最後に過去と未来の自分に向けてこの本の内容をリスト化して終わる。

・愛を知れ

・愛されるな

・愛せ

・友は片手で数えられる人数まで

・時間があれば友と遊べ

・経験値を貯めろ

・文章に触れろ

・自然に触れろ

・好奇心を見過ごすな

・感情に従え

・自分だけを信じろ

・こんな本読んでないで、もっと参考になる本を読め

おわりに

こうして書き終えて見えてきたことがある。僕の人生では“人“の存在が大きいということだ。僕の文章を思い出して頂きたいのだが、人に焦点を当てた話が多い。人生、十人十色。僕にとっての人生が「人との関わり」だとしても他の人にとっては全く別のものなのだから面白い。むしろその「人生について考えること」こそが人生であるのかもしれない。人生という空っぽのコップに自らの言葉で注いでいくこと。時には注いだものを捨てたって良い。そのコップが初めて埋まったとき、自分にとっての人生がなんなのかを理解することができるだろう。

年齢や性別、国籍に関わらずいろんな人と話すことで違う景色が見えてくる。一枚の白紙にその人の背景から過去、現在、未来と描かれた作品でコミュニケーションをとることで詳細まで見ることができる。人間、好き嫌いがあるように一人一人違う景色、違う作品を描いており、そこに面白さが詰まっている。人との繋がりって社会ってそういうことなんじゃないかな。僕にとっての良い作品であっても他の人と同じとは限らない。だからこそ最後は自分の足で歩み、手で触れて、心にある感情に耳を傾けてほしい。それが自分にとって良いのか悪いのかなんて自分にしかわからない。でも何度だって描き直せる。人生(作品)を完成させるのは他人ではなく自分自身なのだから。さぁ描こう、自らの手で。自分が満足する絵になるまで。

こんな参考になるかもわからないの本を読んでくださって本当にありがたいと感じる。ただの23歳、3兄弟の末っ子の、カナダに留学しただけの、ゲームとアニメが好きなオタク寄りの、IT会社に務めるアンチデジタルな、自由を愛している、愛にうるさい、自称宇宙人の本を選んでくれて感謝しています。

人生というテーマであれば、僕よりも向いている人、参考になる人はたくさんいる。世の中の数多の書籍の中から僕の書籍を手に取ってくださった読者の方とは、もはや運命以外の何者でもない。それこそ対面ではないにしろ、書籍を通して出会えたことは一期一会なのでこの機会を大切にしたい。今後も自身の経験したこと、思ったことを発信していくことを感謝の形として贈っていくことをお約束いたします。

ABOUT ME
まえぷログ
ファッションを中心にデザイナーズに囲まれた暮らしを展開
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